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近藤史恵『サクリファイス』シリーズ

  2015年のブエルタ・ア・エスパーニャ第13ステージ。すべての日本人ファンがやきもきしただろう。単独で先頭を走るネルソン・オリヴェイラ。その後ろに、1分もない距離で追走する23人の集団。集団を先頭で走るのが、新城幸也。このブエルタで日本人初となる、3大グランツール完走を成し遂げる男だ。

 誰もが、新城に「もしも」を期待した。グランツールにおけるステージ優勝。まだどの日本人も果たしたことのない、その栄誉に一番近い位置を今、新城は走っている。もちろんそれは簡単なことではない。だが、ここでアタックをかければ、もしかしたらチャンスがあるかもしれない――日本で観戦する多くのロードレースファンがそんなことを期待したに違いない。

 だが新城は、チームメイトのロメン・シカールのために走ることに決めた。集団内でのステージ2位をめぐるスプリント勝負に持ち込むこともできたし、それでも勝算はないわけではなかった(新城はかつてスプリント勝負でステージ5位を手に入れたことがある)。しかし新城は、それよりもまず、後続とのタイム差をできる限り開いて、シカールが1つでも高い順位に入れる可能性を広げる選択をしたのだと、のちのインタビューで語っている。そして実際に彼は、集団の先頭をほぼ一人(ともう一人)で牽き、ほかの22人が集団ゴールをしたのちに、ゆっくりとその後ろでゴールを迎えたのである。

 それは、個人としては大きな損失だったかもしれない。だが、これがロードレースであるとも言えるのだ。見た目は個人の戦いであるようでいて、そこには重要なチーム戦略を必要とし、そのために、たった一人のエースの個人的栄誉のために、多くのアシストの選手たちが自身のリザルトを犠牲にしていく。そしてその行為こそが、彼らにとっての誇りとなり、そしてロードレース全体の魅力を高めるのである。

 新城幸也は今もなお、ヨーロッパの地で戦い続けている。彼はステージ優勝を飾ったり、メディアに大きく取り上げられるようなことは今後も少ないのかもしれない。しかし彼は、今、強力な頼れるアシストの一人として、チームメートから、大きな信頼を寄せられている。それは間違いなく、ロードレースにおける重要な存在なのである。

 

 近藤史恵氏の手がける自転車ロードレース小説『サクリファイス』シリーズを読んでいて、私はつい、そのような新城選手の走り方を思い出してしまった。

 主人公・白石誓は、シリーズ開始時点では国内プロロードレースチームに所属する選手である。かつてはオリンピックを目指せるとまで言われた陸上選手だった彼は、ある出来事をきっかけとしてロードレースに転向する。彼は、1番であることに強いプレッシャーを感じてしまう人物だった。そんなとき、1番であることを必要としない役割も求められるロードレースの魅力を知り、その「アシスト」としての役割に自分の居場所を求めたのである。

 そんな彼が、ある年、日本で行われる最大規模のステージレース「ツアー・オブ・ジャパン」(作中ではツール・ド・ジャポンの名称)に参加し、そこで大きな結果を出してしまう。やがて、スペインチームからの声もかかるなど、少しずつ彼の運命が動き出していく……。

 

「アシスト」としての生き方こそが自分にとっての一番である、という強い思いと、しかし目の前に現れる勝利への、選手としての根源的な欲望とのせめぎあいが読んでいてハラハラとする。彼が勝利できたときは純粋に嬉しいし、アシストとしての役目のためにそれを犠牲にする瞬間は本文冒頭の新城の例のような辛い気持ちも感じながら読むことになるが、逆に多くのアシスト選手たちの思いを感じられるようで、ロードレースという競技の一側面を知ることのできた思いにもなる。

 白石は決して万能な選手ではない。だからこそ彼が、持っている数少ない武器を駆使し、活躍をしてくれるのは見ていてとても気持ちいい。そんな彼が勝つことができるのもまた、ロードレースなのだ。

 競技的な駆け引きの側面や、スプリントの迫力などだけではない、活字でこそ表現できるこのスポーツの魅力を、うまく引き出している作品であるといえる。

 

 第1作の『サクリファイス』は、ツアー・オブ・ジャパンベルギーのレースを舞台にしている。一つの作品の中に2つのステージレースが盛り込まれ、話的にも最もきれいにまとまっている。ミステリ調にも仕上がっているため、ロードレースに興味がない読者でも楽しむことができる作品だ。作者的にはもっと書きたいこともいっぱいあるのだろうが、読みやすさを重視していろいろと取捨選択をしている様子が読み取れて、勉強になる。ロードレースを小説にするとしたらこういう書き方をするのがよい、というお手本のような作品だ。

 第2作『エデン』はツール・ド・フランスに舞台を移す。作者的にも書きたいことをいっぱい詰め込んだ結果なのだろうか、『サクリファイス』ほどぎゅっと纏まっている感じはないため、ロードレースに興味がない方が読むと少々飽きる部分はあるかもしれない。逆にロードレースファンにとっては非常に面白く読める作品だ。

 私がとくに新城幸也を想像しながら読んだのもこの『エデン』だ。何しろ、数少ない日本人選手としてのツール・ド・フランスへの参加(しかもフランスのチームで!)。もちろん役割はあくまでもアシストとして、という立場で。そんな中で白石は、アシストとしての役割に徹しながらも、日本人としては夢のまた夢としか思えなかった結果を積み重ねていくのである。レース観戦者の視点として読んだ場合、これほど興奮できる展開もない。

 だからこそストーリー後半での伝説の山での出来事は、強い喪失感に見舞われるのであるが、その選択こそがやはり、この物語には必要な結論だったのではないか、とも思えてくる。だからあとは、物語の中ではなく、実際のレースの中で、今の、あるいはこれからの日本人選手たちに期待をしていきたい。

 そして『エデン』でここまで真剣に白石を応援し、そしてその勝利や選択に共感をしていくことができるのも、『サクリファイス』での出来事があったがゆえなのだ。ぜひともロードレース観戦ファンの方でこの両作品を読んでいない方がいるのであれば、しっかりと『サクリファイス』から順番に、登場人物に寄り添いながら読んでいただきたい。

 

 第3作『サヴァイヴ』は短編集となっており、白石の登場しない作品も多数ある。扱われているレースはパリ~ルーベ、世界選手権などだが、短編ということもありレース部分はさほど多くはない。

 しかし多少のレース描写に人物同士のどこか淡泊さすら見えるような淡いコミュニケーションを中心としたやり取りは読み心地よく、『サクリファイス』同様、お手軽な読みやすさがある。何より日本人がパリ~ルーべに参加する! 別府選手なんかも参加はしているが、やはりそういった興奮を感じながら読むことができるのがこのシリーズの魅力だ。

 第4作『キアズマ』は、白石が登場しない作品ということでまだ未読。しかしこれからもぜひ、ロードレース小説を精力的に手掛けていただきたく思う。

 

 レビューなどを見ていると、結構ロードレースに興味がない方も読まれ、そして面白いと感じてくれる方も多くいるようで、『弱虫ペダル』と並び、ロードレースファンを増やしていくきっかけとなってくれればと思う。

 日本のロードレース環境をより向上させていくためには、その熱心なファンの増加がまずは大事であることはいうまでもない。こういった、興味を持つ人を増やしていく作品がもっともっと増えていけばいいと思う。

サクリファイス (新潮文庫)

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エデン (新潮文庫)

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サヴァイヴ (新潮文庫)

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